元フィギュアスケート選手で、「氷上のプロポーズ動画」のドラマチックなエピソードでも有名な井上怜奈さんをご存知ですか?
あの感動のプロポーズは、井上怜奈さんの現在の旦那さんであるジョン・ボールドウィンさんと出場した、2008年の全米選手権での出来事でした。

ただそれだけでもドラマみたいなストーリーですが・・・
もしあなたが、井上怜奈さんの現在までのスケート人生の裏に秘めた、家族の死、重大な怪我や、がん闘病・・・その壮絶な半生を知れば、あの映像はより感動的なものに変わるはずです。
ぜひ、その生い立ちを踏まえて、できれば2度、動画の全編をご覧になってください。
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井上怜奈のプロポーズ動画全編はこちら
ビデオ録画の時代ですが、氷上のプロポーズの映像は現在も残っています。
映りの粗さはご愛敬ですが、字幕があるのとないのとでは作品としての面白さが雲泥の差です。絶対に字幕版をお勧めします!
氷上のプロポーズ・字幕版
実況者の軽妙なやり取り、会場のアナウンスの粋な一言、湧き上がる歓声、すべてが感動的なシーンです。本当に惚れ惚れするプロポーズですね・・!
井上怜奈のプロフィール

- 名前:井上 怜奈(いのうえ れな)
- 生年月日:1976年10月17日
- 出身:兵庫県西宮市
- 身長:149cm
- 国籍:日本→アメリカ
- 在住:アメリカ
兵庫県生まれの井上怜奈さんは生粋の日本人ですが、現在はアメリカ国籍でアメリカ在住の日本人です。国籍を変えてでも、愛するスケートと、愛するジョンのため生きようとした理由は、後ほど。
旦那さんは元ペアを組んでいたジョン・ボールドウィン、2011年に長女リリアナちゃんを出産、2016年に二人目のお子さんが誕生しています。

井上怜奈さんのフィギュアスケートの経歴
- アルベールビル五輪・日本ペア代表出場 ・・・日本人最高のペア14位
- リレハンメル五輪・日本女子シングル代表出場・・・総合18位
- トリノ五輪・アメリカペア代表出場 ・・・7位入賞
- 2006年世界選手権・アメリカペア出場 ・・・4位
- 2007年世界選手権・アメリカペア出場 ・・・2位
日米合わせて過去3度のオリンピック出場の経歴は、例え優勝に届かなくとも輝かしいものです。
井上怜奈さんの華々しいスケート人生の舞台裏に、想像を絶する苦難と、自身の家族や、夫・ジョンへの深い愛情にあふれたストーリーがありました。
井上怜奈のがん克服~現在までの壮絶人生とは

兵庫県西宮で生まれた井上怜奈さんは、お父さんの仕事の都合で千葉県松戸市へ転居後、4歳でスケートを始めました。
喘息持ちで病弱な怜奈さんを心配したお父さんが、近くのスケートリンクへ連れて行ったことがきっかけだったそうです。
初めてのオリンピック出場で、日本人初の記録を残す
その後、井上怜奈さんはめきめきとフィギュアスケートの才能を開花させ、15歳で世界フィギュア選手権に小山朋昭さんとペアで出場。
初出場15位という結果を残し、弱冠中学3年生という若さで冬季アルベールオリンピックへの出場権を獲得しました。
とても美しい演技です。
優勝争いには及びませんでしたが、日本人初の総合14位という好成績。
しかしその後、井上怜奈さんの怪我によりペアは解消されてしまいます。
リレハンメル五輪~全日本選手権でのトラブル
高校2年の17歳の時にはリレハンメル5輪へ出場。
選考会ではテクニカル4位、フリーで2位という好成績ながら、本番はテクニカルプログラム・フリー共にミスを連発してしまい、総合18位という悔しい結果でした。
そして18歳の時、「高熱でふらつきながら」出場した全日本選手権では、演技中にリンクにぶつかる、最後は立ち上がれなくなり、担架で運ばれるという衝撃の結末が。
その時の映像が残っています。
演技中も常に苦しそうで笑顔はなく、最後は力尽きるように崩れ落ちてしまう姿はとても痛ましいものです。会場からは拍手とどよめきが入り混じっていました。

“ファン第1号”の父の死と、挫折と
リレハンメル五輪が終わった後、小林怜奈さんは“燃え尽き症候群”によってスケートを辞めようと思っていたそうです。

そんな中、怜奈さんのお父さんに肺がんが発覚し、一度は回復したものの、翌年に再発、43歳という若さでお父さんはこの世を去ってしまいました。
その後、お母さんや周囲の励ましもあり、日本ではまだレベルの低い「ペア」の相手を見つけるために単身渡米することを決意します。
22歳でがんが発覚、異国の地で闘病生活が始まる

慣れないアメリカでの生活は当然苦しく、レッスン代と生活費捻出の為、寿司店や土産品店でアルバイトをしていた井上怜奈さん。衣装を買うお金がなく、自分で作った衣装を着て出場した大会もあったそうです。
そして、22歳。まさかの肺がんを罹患。早期発見だったのが唯一の救いでした。
入院して肺切除をした場合、運動機能が低下しその後の選手生命が経たれることを考え、通院と抗がん剤投与による治療を選択しましたが、重い副作用に耐えながら、それでも厳しい練習とアルバイトを続ける中で、事故は起きます。
練習中、誤って落下してしまい、
- 頭蓋骨骨折
- 一時は意識不明に陥る
- 前歯をほとんど無くす
- 卵巣を片方破裂させて卵巣摘出
- 後遺症から心的外傷後ストレス(PTSD)となった
がんだけではなく、女性として、筆舌に尽くしがたい重傷を負ってしまいます。
見ただけで生きる気力をなくしそうな、文字通り“地獄のような”辛い闘病生活。
とても、まともにスケートができる状況ではないばかりか、生死の危機にすら瀕していた井上怜奈さんが、このどん底から這い上がれた理由とは何だったのでしょうか。
ジョン・ボールドウィンとの出会い
それでも諦めずにフィギュアスケートを続けていた井上怜奈さんが23歳の時。
「スケートのエリート一家に生まれた落ちこぼれ・ジョンボールドウィン」との出会いが、その後の彼女の人生を大きく好転させました。
出会いのなれそめはジョンのお父さんだそうで、伸び悩むジョンを「闘病を続けながらスケートを頑張る女性」と引き合わせることで、苦境を乗り越えさせようとする魂胆があったともいわれています。
ちなみに、ジョンはこの出会いにあまり乗り気ではなかったようで、ペアを組んだ初めの頃は、意見がぶつかり合うことも少なくなく、ジョンが途中で練習を投げ出してしまうこともありました。
“二人で一緒にオリンピック”を目指して

実は、オリンピックに2度も出場している井上怜奈さんと、ジョンとでは歴然とした実力差がありました。
当初難易度の低いジャンプしかできなかったジョンに比べ、井上怜奈さんはトリプルアクセルを飛ぶことができました。
そんなジョンが必死で猛練習をする姿に心を打たれ、“二人でオリンピックに出る”という目標を掲げ、2004年の全米選手権へ出場。この時、井上怜奈さんはアメリカ国籍を取得しています。

がん再発の危険が去ったわけでもなく、常に死と隣り合わせの時間を過ごしていた井上怜奈さんにとって、最も大切だったのは、自分一人の目標よりも、“誰かと目指す目標”に命を燃やそうという強い覚悟があったのかも知れません。
トリノ五輪へ出場をかけた試合で、テクニカル(ショートプログラム)では4位と出遅れてしまい、オリンピックは絶望視されながらも、その後のフリーで、スケート史上初の「スロー・トリプルアクセル」が成功。
見事、オリンピックへの出場を果たしました。
3:15~あたりからがその場面です。「スロー」は、ゆっくり、ではなく「投げる」方のスローなんですが、成功後の歓声の大きさからも、それがどれだけ難易度の高い技であったかが伺い知れます。
演技終了後は鳴りやまないスタンディングオベーション。
一時は、「ジョンをやめて他の選手と組め」とスケート連盟からも指示があったそうですが、頑なに断り続け、やがてこうして生まれた結果と積み上げた時間によって、二人の絆と愛が深まっていったのですね。
井上怜奈のプロポーズ動画全編!怪我・がん克服~現在までの人生について
もういちど、プロポーズの動画を載せておきます。
想像を絶する挫折や怪我、がんと闘いながらも諦めなかった井上怜奈さんと、それを支え、ともに歩こうとするジョンの愛情の結晶が、この映像には詰まっています。
何も知らずに見た時と、そうでないのとでは、受け取り方も大きく変わるんじゃないかと僕は思います。
ドラマのようなワンシーンが現実となり、これまで苦しかった怜奈さんの人生が、これからもきっと幸せであることを願わずにはいられない。
そんな想いが残るエピソードのご紹介でした。
最後までご覧頂きありがとうございました。